探山訪谷[Tanzan Report]
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 No.874【瓜生山はどこか?】
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北白川天神宮の参道(千古山天神ノ森)
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左=北白川天神宮(拝殿・本殿)  右=千古山天神ノ森の樹林
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千古山天神ノ森と銀閣寺山国有林の境界から銀閣寺前町側を眺める(遠景正面の尾根に東山山頂の大日堂が見える)
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丸山(左=丸山町)。前の平坦地は照高院跡(2002年撮影)
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左=八神社  右=中尾城跡(主郭)
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行者ノ森石仏(鎌倉時代)
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左=「行者の森/大文字山参道」標石  右=役行者像(「神変大菩薩」)
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「贈正五位中沼先生講書之邸址」碑(京都市教育會建立)
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同所にある瀟洒な建物(右=2002年撮影)
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大山出城跡へ登る尾根から白川本流の谷筋を見下ろす
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大山出城跡
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 瓜生山(うりゅうやま=301m)は比叡山から北白川へつづく尾根の末端にあり、西麓に北白川瓜生山町(うりゅうざんちょう)があるため間違えることはないだろう(山頂は一乗寺松原町)。だが、時代によって位置は異なり、異称も多いので地元でもいまだに混乱を招く場合がある。

 江戸時代初期の代表的な地誌である『雍州府志(ようしゅうふし)』〔黒川道祐(くろかわどうゆう)著〕によれば、「白川の南、浄土寺村の上(かみ)に在り」と記し、白川の北側(右岸)に位置する現在とは大きく異なる。
 白川の南側(左岸)にある山は、下流から半鐘山(西方山=銀閣寺前町・浄土寺小山町)・千古(せんこう)山天神ノ森〔北白川天神宮(きたしらかわてんしんぐう)=仕伏町〕・丸山(屋形山=丸山町)・大山出城(おおやまでじろ=外山町・南ヶ原町)で、尾根の南面にある八神社(山王十禅師社・十禅師大明神=銀閣寺町)や大嶽(大嵩=おおたけ)中尾(中尾城=浄土寺大山町)は北白川を外れる。記載内容が間違っていなければ、該当する範囲はおのずと限られよう。なお、半鐘山は大半が近年住宅地に変貌した。
 つづく説明で、八坂神社の祭神〔牛頭(ごず)天王=素戔嗚尊〕は播磨国広峯(ひろみね)よりこの山に鎮座されたこと。木瓜を好まれたことから瓜生(うりう)山の名が生じたとしている。
 しかし、山名そのものは歌枕のひとつとして平安時代から詠まれ、『新勅撰集』に載る藤原伊尹(ふじわらのこれただ・これまさ=謙徳公)や『歌枕名寄』にある恵慶(えぎょう)法師の和歌が、江戸時代後期の『都名所圖會』にも掲載される。したがって、古くは白川村から「志賀の山越」にかけての地名だと考えられる。同名ながら、平安時代と江戸時代では範疇が異なる。
 延文6(1361)年に戦勝祈願の勝軍地蔵が瓜生山山頂に安置され、勝軍(将軍)地蔵山や勝軍山・城山と称した〔大永1(1521)年に細川高国(室町幕府管領)が勧請したとも〕。宝暦12(1762)年に照高院門跡の忠誉(ちゅうよ)法親王が勝軍地蔵尊を南西側の支峰(丸山・北白川山=山ノ元町)へ移されたため、山名も移動する。そのため、旧来の峰を元勝軍山(旧瓜生山)とも呼ぶ。
 『雍州府志』に記載される周辺の山は、北から一乗寺山(一乗寺)・白川山(白川村東北の山)・浄土寺山(白川山の南)・慈照寺山(大嶽中尾、亡魂の送火=大文字)・善気(ぜんき)山(慈照寺山の南)の順に並ぶ。これは現在の地域に当てはめても妥当なので、わざわざ瓜生山を記載する理由は何であろう。当時の人々にとって、白川村の中で特筆すべき山として認識されていた証ではなかろうか。

 こうした経緯から関心を抱き、時間があるときに少しずつ現地を訪ねているが、子供の頃に遊んだ銀閣寺付近でも新たな発見があっておもしろい。八神社の前を右折して熱変成を受けた珪岩の露頭を過ぎると、京都朝鮮中高級学校と大文字山への道が左右に分かれる。付近は行者ノ森と呼ばれ、印を結ぶ姿から釈迦如来とされる像(鎌倉時代)が向かって右に立つ。左に役行者像や不動明王像も並ぶ。
 火床への参道を少し進むと、「贈正五位中沼先生講書之邸址」と彫られた石碑が目に入る。中沼了三〔なかぬまりょうぞう=葵園(きえん)〕は隠岐島出身の儒学者で、孝明天皇と明治天皇の侍講も勤め明治時代にここで学舎を開いたらしい(烏丸通夷川下ル東側にも竹間教育会の建立した碑が以前はあった=講書所跡)。明治29(1896)年、自邸において81歳で逝去。安楽寺に墓がある。
 中尾城と大山出城は勝軍山城(北白川城)と関係が深い中世の山城で、足利義晴(あしかがよしはる=室町幕府第十二代征夷大将軍)・義輝(よしてる=第十三代征夷大将軍)が軍事的に利用したとされる。天文19(1550)年に三好長慶(みよしながよし)と対立し、争いに敗れてこの城を放棄し近江の坂本へ逃れた。
 近くにある東山新城(北白川蓬ヶ谷町)と如意ヶ嶽城(鹿ヶ谷大黒谷町)は、「応仁の乱」〔応仁1(1464)年〜〕にかかわる山城で少し時代が遡る。異説もあるが、若狭の武田氏と家臣だった逸見(へんみ)氏の築城とされ、以後は将軍をはじめ多くの武将が修復し駐在を繰り返す。
 群雄割拠の時代はつづき、天正1(1573)年に室町幕府が滅んで織田信長・豊臣秀吉の登場を促した。元亀1(1570)年には、比叡山をバックにした浅井・朝倉勢と対峙する明智光秀が勝軍山城(北白川城)に駐留する。東山新城は勝軍山城と連なる位置に築かれているため、取り巻く情勢や状況に応じて継続して砦が造られたり廃されのではないだろうか。
 現在では地名として残るだけだが、かつての浄土寺は広大な寺領があった(名前を継承する浄土院が銀閣寺に隣接)。智証(ちしょう)大師円珍(えんちん)が住したとされる天台寺院で、その鎮守社である八神社は浄土寺村の総氏神。「馬場」は現行町名に引き継がれ、「宮ノ前」も銀閣寺町に残る。私の育ったところは近くに日吉神社(真如町)があり、祭礼当日は八神社から剣鉾と神輿が巡行してきた。西は吉田山東麓の神楽岡までが域内である。
 銀閣寺(東山慈照禅寺=とうざんじしょうぜんじ)の造営後に描かれた絵図では、門前の銀閣寺町一帯が永観堂の領田地になっており、時代による寺社の盛衰や関係がうかがわれて興味深い。現時点では解明にほど遠いものの、歴史ある地域だけに今後も探索をつづけよう(2023.1〜2023.6)。
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瓜生山山頂(狸谷山不動院 奥之院幸龍大権現)
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勝軍地蔵が祀られていた石室
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勝軍山城(北白川城)出丸(北城)跡から上高野・岩倉方面を望む
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