探山訪谷[Tanzan Report]
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 No.883【和田宿】
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和田宿(和田城址から)
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並刻された「金毘羅大権現・秋葉山大権現」の石碑
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左=街道筋の町並み(本町)  右=懐かしい佇まいの商店(本町)
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集落の家並み(下和田)
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左=遠山川(正面の独立峰は盛平山)  右=龍渕寺参道の石仏
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左=樹齢600年といわれる観音大杉(近くに観音霊水が湧く)  右=龍渕寺の参道
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 遠山郷の和田(旧南信濃村=長野県飯田市)は、赤石山脈と伊那山脈の間を南北に縦貫する秋葉(あきは)街道(信州街道)の宿駅である。北は旧上(かみ)村(長野県飯田市)から地蔵峠で大鹿(おおしか)村と接し、南は青崩(あおくずれ)峠で遠江国(とおとおみのくに=静岡県浜松市)につながる。古くは遠州灘の相良(さがら)から秋葉山を経て遠山郷に入り、諏訪湖へつづく「塩の道」であった。のちに秋葉神社の信仰と結びついて多くの人々が往来し、賑わった戦後の和田(本町)には7軒の宿屋が営業していた。飲食店は20軒、パチンコ店も5軒あったという。
 戦国〜江戸時代にかけて、遠山氏の拠点である和田城が盛平山にあった(現在の和田城・遠山郷土館は龍渕寺に隣接)。全盛期は遠山六ヶ村と周辺を含め3,500石を領している。遠山氏三代の栄華は長続きせず、同族ならびに領民の争いから、領地は幕府直轄(天領)になったらしい。明治時代に皇室財産として再編され、戦後は国有林に引き継がれている。
 民有林は王子製紙によって早くから伐採されたが、国有林の木材搬出は森林鉄道が完成してからのことである。私が高校生の頃は、遠山川流域の軌道がまだ健在だった。
 旧街道に残るかつての繁栄の痕跡と景観が見たくて、尾之島から下市場・本町・新町を訪ねる。沿道には、諏訪神社のほか金毘羅大権現と秋葉山大権現が祀られており、この地の信仰や社会・文化を感じるひとときになった。水の神と火伏せの神が並んでいるのもおもしろい。
 遠山郷では、新年を迎えるにあたって湯立神楽で知られる「霜月祭」が各所で行なわれる。古い形態を残す無形民俗文化財だが、宿泊した宿の主人から興味深い話をお聞きした。八重河内(やえごうち)の梶谷(かじや=鍛冶屋)にある三条(三條)神社は「関ノ明神」とも称し、逢坂(おうさか)山(大津市逢坂)にある蝉丸宮(関明神社=下社・上社と分社、三社の総称)を勧請したものという。かつては、関蝉丸(せきせみまる)神社の祭礼に各地から遊芸の徒が集い、営業許可の免状が出されていた。その歌舞が「霜月祭」を構成する原型(要素)になっているとのこと。居住する大津から遠く離れた山間の地で、伝承されてきた祭が一挙に身近な存在となった(2023.8.4)。
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